稽古をしていると、ひときわ目に入る人がいる。
若い女性であり、私の門人でもある。
弓に、私の身体理論を取り込んでくださっている。
私よりもずいぶんと弓歴が長く、今年五段を受ける。

あの先生は、ここがすごくいい。
この先生は、ここが素晴らしい。

そういう見立てはたやすい。

しかし、彼女は「ここ」がない。
ただ普通に引いてるだけだ。
しかし、目が止まる。
この状態をなんと呼んで良いのだろうか?

そのときに思い出した教歌。

見どころの なきこそものの 上手なれ
(二巻 10ページ)

最初意味がわからなくて、散々調べた歌だ。
「見どころがない」というのは、普通は良くないという意味だ。
しかし、こと弓道においては、「見どころがない」ということは「上手なれ」なんである。

「見どころがない」=見るべきところがない。
ここでは、見るべきところとは目立つところがないということで、すべての身体の動きと心の動きが整って揃って動けば、「見るべきところ」などは出てこないと考えるのである。
そのような、取り立てて見るところのない、自然の射こそが上達のための大事な要件であるという意味である。

どうしてもここだけは目立とうとか、ここは頑張ろうなどとしてしまうが、本当は全体が整って揃って動かねばならない。

なるほどなあ。と思う。

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当の彼女に、そのことを話した。「あなたの射を見ていると、「見どころの なきこそものの 上手なれ」という歌を思い出すよ」と。
すると、ニッコリ笑って「とても嬉しいです!」。

私も、「見どころのない」射を目指そう!
2018/03/14(水) 09:23 教歌 PERMALINK COM(0)
稽古をば 晴れにするぞと嗜みて
 晴れをば 常の心なるべし
(三巻 34ページ)



まさに、稽古の心得である。
いつも本番。
いつでも本番。

本当は試合ですらも、本番ではない。
生き死にに直結する「本番」は決して来ないとは思う。
ただ、生き死に自体はそこにある。
安全な人生でも、長寿安坐の人生でも、いつかは死ぬ。
生と死と、向き合うこと。
常に本番である。

私がなぜ「武」術を選ぶか。
それは、常に生死を分けるものだからだ。
敗者は死ぬ。
生きるために稽古を続ける。

その覚悟。
2018/03/12(月) 16:31 教歌 PERMALINK COM(0)
弓道ですごいなあと思うのは、「教歌」。
元々は口伝で、歌として伝わった教えである。
弓道の射技だけでなく、心構えについても多くありとても響く。

気になった教歌を、時々メモしておこうと思う。

記念すべき(?)第1回は、

「始めより 心にかけて習わずば
   あだに月日の数や積もらん」

(教本4巻 33ページ)

耳が痛いというか、もう、何というか・・・。
稽古すればいいってもんじゃない。
「あだに月日の数や積もらん」とは、まさに痛いところである。
空手から初めて30数年。
「あだに」積み上がってはいまいか。

心を大事にして、素直に稽古を積む。
何かをめざすわけではない。
もう、「強くなりたい」という思いはない。
もちろん、強くなりたくないわけじゃない。
弓で言うなら、中てたくないわけじゃない。

強くなるためとか、中てるためとかではない。
身体の知恵はそこには、ない。
身体を知って、正しく使うという先人の知恵があって、それを修練していけば、結果がついてくるだけだ。

そう思って、今日も、明日も、励む。
心にかけて、学ぶ。
2018/02/21(水) 23:10 教歌 PERMALINK COM(0)